昭和40年11月11日 朝の御理解



 昨夜、月次祭が終わりましてから、企画委員の方達の会合がありまして、それからその後、丁度今朝の、きっちり3時まででした、堀尾さんを交えて、あそこへまあ、本当にそれを検討されるのは、秋永先生と高橋さんぐらいなもんでございましたけれども。皆もそれにまあ、お付き合いして残っておりましたが、帰った後に、神様にお礼を申させて頂きよりましたら。
 あの今頃あんまり見なくなりましたけれども、筑後地の名物と、今頃そう言われておりました、「はじの実ちぎり」ね。もう高ぁいあれはもう高い高い橋をかけてあの、上に登ってあのはぜの実をちぎるんですね、あのはぜの実ちぎりの事を頂く、良景を頂くんですよ、私そのその事から色々思わしてもらうんですけれどもね、あのお徳を受けるということはね、それは自分の事のために一生懸命にあると言う様な事では、大した事ではないですねやはり、ね。
 例えばうんなら私共が、まあ別にお徳を受けておるというわけではないけどこうやって人が助かるほどの事にだんだんなってきたというのはもう、いしょ、あの一生懸命があの、自分の為では一っつもなかったですね、やはり最近私が申しておりますあの、神様に喜んで頂く様な事のために一生懸命だったですね、ね。ですから、皆さんこうやってあの、朝の、朝参りをなさる。
 例えばうんなら、コヨウさんでも、長瀬さんでもやっぱ、高田(?)さんあたりでも、皆昨夜その中に入っておられたわけですけれども、それは本当に例えばあすきあの、高橋さん、まあ秋永先生、文男さん、あの今度の御造営の今度の、一部屋一部屋の事についての、熱心さというものは、もう本当に異常なくらいですね、もう一部屋のいわゆる検討されるのに、もう検討してもう一生懸命して分からないとですね。
 やっぱりあの、やっぱり一冊五百円も六百円もするような、あのその専門書を買うてきてから勉強しておりますですもんね、そして専門屋であるところの、その大工さんにでも、棟梁にでも、それから富士やさんにでも、あたっておられますからね、ですからもうその、「そげなんこつが」っち、いち、もういっぺん、言えないような、その雰囲気があることですね、そしてその、もうそれがもう何遍も何遍もその、検討されておる、本当にあの頭が下がる思いでございますですね。
 どれも神様に使われてござるというのは間違いないのですけれども、その神様に使われござるというとが素晴らしいです、ね、神様があの人達のために必ず使えなさる時代が来ると思うですね、ですからあんなら今度の御造営にお互いが、まあある意味では一生懸命ですけれどもですね、ですけん、もうその何かで、何かの形においてですよ、ね、何かの形において、一生懸命のものが、もうなからなければ。
 中途半端なもんじゃいかんですね。折角(?)さん方が例えば、本当に御造営のことのために、特別の特別信心をなさっておられますが、それがもう形に終わらずに本気だ例えば秋永先生あたりが、もう自分達はここに一つその、検討し損ねておった、もういつまでもそれが、その不作という事がですたいね、責任を、とられるおなんか、そんなもんでもないでしょうけれども。
 とにかくより良い行く事のために、一生懸命になっておるということです。これは御造営だけのことじゃありませんです、例えば神様の喜んで頂けれる事のために一生懸命というのですから、けれども今度の御造営の事なんかはこれはもう絶対神様が喜んで下さることのためですもんね、いわゆる、と言うよりも、もう本当に神様の悲願が、成就する事のためですもんね。
 だからこれに奉賛するということはもう、本当に素晴らしい事だと、ね。ですからそれもその、本当にあの御造営が、成就になる時まで、例えば五ヶ月かかれば五ヶ月、半年かかれば半年間です、その一生懸命のものが、私は「はじの実ちぎり」として受けて下さるおかげになるのじゃないかと、まあこれは「はじの実の、ちぎり」ということは、勿論、信心が高いところに登るということもありましょうけれども。
 まあ私は、感じましたのは、もう「光の元だ」とこういう風に感じたんです、ねあれはねロウソクのもっ、作りますとでしょ。もう「光」ということは「徳」と仰るのでございますから、その光の元を確かに、いたっ、蓄えよる時、まあ積みよる時、それはもう寒風にさらされて、このう、おぉ、寒さに向かってやるわけですから、それはもう、もう(ほうぜつ?)にしてからですね。
 あのう昔はそんな風景が、あっちこっちに見られたもんですけども、咲いとるそのはじの木が、切られて皆さん知らん方もあるくらいでございましょうけれども、そういう状況なんですよ、ね。ですからそのう、いかに一生懸命の力を行事されると言うても、神様に撃ち向けられると言うてもです、それがもし自分の事のためであったら、いや大した事はないということですね、
 神様事によってです、今まで分からなかったこっ、開眼すると言うか、悟ると言ったような事は出来ましょう、ね、まあそれがだんだん、おかげを頂くわけでございますけれどもです、ね。私はまたとない、こういう神様の願いがいよいよここに、形の上に成就していくことのためにです、椛目全体の者が、一願になって、まあそのことの、祈らしてもらい、また形の上で真心を持って尽くさせてもらうと。
 しかももう、これだけのことをしたから、これですんだじゃなくてですたい、ね。さっ昨日の朝の御理解じゃないですけれども、「もうこれですんだとは思わん。」という気持ちで、本気でそのことに、気をさしてもらい、奉賛さしてもらうということ、それが私、力にまたは光に、言わば神様は、はぜの実の獲得にですたいね言わば、成らん事ないというふうに思います。
 どうぞ私共の、一生懸命になるならば、神様の喜んで頂く事のために、一つ一生懸命打ち込まなければいけない、形の事がです、形の事が、まあ、まあ総代さん方の、(  車のせいで聞き取れない )ね。本当に、家ででもんなら、(?)さんなんかも、丁度3時まででしたわけですたいね、ですが、して今朝またこうして朝の御祈念に参ってみえておられます、これはよっぽど一生懸命じゃなからなか出来ることじゃない、ね、その一生懸命が、神様に認められないぃはずが、ないのですけれども、ね。
 それがただ、あのおざなりであり、言うならば、それは形だけであり、というのが、目的が、その、その事のためでない、とすると、それは非常に、力が弱いものになってくると思うですね、神様にお受け頂けれる事がですたい、ね、例えばうんなら、高橋さんなり、あぁ秋永先生あたりが一生懸命その事を検討しとることはです、もう他ん事は考えられんですもん、あれだけ一生懸命になったら、こりゃ間違いなく一生懸命になるわけですたいね。
 ですから本当にわた、そのう、お互いの持ち場、お互いの立場、においてですたい、御造営の事のために一つ、本気で、奉賛さして、頂きたいと思います、ね、それが、神様が「はじの実ちぎり」として、はじの実の獲得を、沢山さして頂いておけばです、それだけ沢山のロウが出来るわけ、ならロウが出来るということは勿論、「光」を頂くということに、繋がることだと私は思わせて頂きました。 
   どうぞおかげ頂きますように。